テクノロジーとは目的ではなく、技術力を使って組織を変革していくツールです。現在のDXにつながる考え方にいち早く気づいて、企業の変革に取り組んできたエンジニアがいます。カシオ計算機の虻川 勝彦・デジタルイノベーション本部長はSIerを経て入社した私鉄で、システムの改革を通じて組織の変革にかかわってきました。「レガシーな会社こそ、システムで変革できる余地がある」を持論に、活躍の場をカシオ計算機へと移しました。
人の思考や行動に影響するDXは当然、平坦な道のりではありません。どのようにして周りを巻き込んでいったのでしょうか。コアコンセプト・テクノロジー(CCT)のアドバイザーで合同会社アルファコンパス 代表CEOである福本 勲氏が、虻川氏に伺いました。
大手SIerを経て、関東大手鉄道会社でシステム部門や新規事業部門、経営企画部門を経験し、IT戦略策定や各種システム構築、通信事業会社立上げなどを手掛ける。システム部門長やDX部門長、システム子会社などの取締役、設立したAI企業の代表取締役社長CEOなどを歴任。2022年にカシオ計算機にジョインし現在はデジタルイノベーション本部長としてカシオグループのデジタルに関する業務を横断的に取り組む。
コミュニティでは、AWSのエンタープライズユーザー会であるE-JAWS会長、サイボウズのエンタープライズユーザー会kintoneEPC初代会長、Googleエンタープライズユーザー会Jagu‘e‘rのコミッティメンバーを歴任。
1990年3月、早稲田大学大学院修士課程(機械工学)修了。同年に東芝に入社後、製造業向けSCM、ERP、CRMなどのソリューション事業立ち上げに携わり、その後、インダストリアルIoT、デジタル事業の企画・マーケティング・エバンジェリスト活動などを担うとともに、オウンドメディア「DiGiTAL CONVENTiON」を立ち上げ、編集長を務め、2024年に退職。
2020年にアルファコンパスを設立し、2024年に法人化、企業のデジタル化やマーケティング、プロモーション支援などを行っている。
また、企業のデジタル化(DX)の支援と推進を行う株式会社コアコンセプト・テクノロジーをはじめ、複数の企業や一般社団法人のアドバイザー、フェローを務めている。
主な著書に「デジタル・プラットフォーム解体新書」(共著:近代科学社)、「デジタルファースト・ソサエティ」(共著:日刊工業新聞社)、「製造業DX - EU/ドイツに学ぶ最新デジタル戦略」(近代科学社Digital)がある。主なWebコラム連載に、ビジネス+IT/SeizoTrendの「第4次産業革命のビジネス実務論」がある。その他Webコラムなどの執筆や講演など多数。2024年6月より現職。
目次
「テクノロジーは手段である」 SIer時代、コンペに負けて得た教訓
――まずは虻川さんのご経歴をお聞かせください。
虻川(以下、敬称略) 新卒でSIerに入社しました。学生のころから起業したいと思っていたのですが、新卒で起業するにはあまりに経験不足だったので、まずは就職して経験を積もうと。当時はインターネットの黎明期で、ネットには常時接続できずテキストしかやり取りできない時代でしたが、コンピューターは将来、欠かせないツールになるはずだと思いました。そこで、企業の情報システムの開発に従事するSIerを就職先に選んだのです。ただ、就職活動の時から「5年間は死ぬほど働きますが、5年で辞めます」と言いながらですけれど。
福本氏(以下、敬称略) 就職先にもそう言ったのですか。
虻川 言いました。するとある会社の人事部長が面白がってくれました。「死ぬほど」がどれだけ忙しいのかもよく分かっていたつもりですが、スキルを身に付けられるなら、やはりそこだなと思いました。「本当に死ぬほど忙しいぞ」「望むとこですよ」みたいなやり取りをして、入社してみると実際にその通りでした。残業時間が本当にすごくて、もう会社に住んでいるような感じでした。
――当時のシステム環境は、どのようなものだったのでしょうか。
福本 当時は、汎用機*が主流だった時代です。ダウンサイジング**とか言われていましたね。
* 汎用機:大企業の基幹情報システムとして用いられていたコンピューター。メインフレームとも呼ばれ、1980年代ごろまでは主流を占めていた。大量のデータ処理を行うため大型で、建物のワンフロアを占めることも珍しくなかった。
** ダウンサイジング:機器やシステムの性能・機能を保ったまま小規模化すること。より安価で運用保守の費用を抑えられる汎用サーバに置き換わっていった。
虻川 まさに、ダウンサイジングを行うプロジェクトにかかわっていました。
福本 今では考えられないでしょうが、当時は企業が専用の計算機センターを設け、そこを巨大なコンピューターが占拠しているような時代でした。
虻川 超大型の、6ドアの冷蔵庫みたいなホストコンピューターが並んでいましたね。いろいろなシステムを、マニュアルと首っぴきで作業しながら覚えていく感じでした。
福本 それで、実際に5年で辞めたのですか。
虻川 実際には少し早めの4年で辞めました。5年目に入ると担当していたプロジェクトの2期開発に入ってしまうので、そうするとさらに3年は続くのでご迷惑をかけないように区切りのいいところで退職しました。次への転職の伏線としては、SIer時代にあるコンペで負けたことがありました。在職時の後半に、あるプロジェクトにヘルプで入っていたのですが、結構自信のあった提案が、あっさり負けたのです。当時、26歳ぐらいで少し天狗になっていましたから堪えました。
「どうして負けたか分かるか」。後でお客様のプロジェクト責任者の方に尋ねられました。そこで分かったことは、高い技術力を活用した提案が、必ずしも採用されるわけではないということでした。「企業の意思決定の仕組みを知らないと、起業しても儲からない」と思いました。それを学ぶにはある程度歴史のある会社が良いと意識するようになりました。
その当時、就職情報会社を通じてあなたに合いそうな会社という提案をしてもらったら、200社くらいの会社案内が送られてきました(笑)。その中から転職先としてレガシーな会社を探し始めました。
レガシー企業には、システムを使って変革できることがたくさんある
福本 その中から、東京の鉄道会社を選んだのですね。
虻川 会社案内があまりにも多く送られてきて選り分けていたとき、鉄道会社のパンフレットが束の中からポロッと落ちたのです。漫画みたいなのですが、本当のことです。「鉄道会社がなぜエンジニアを求めているんだろう。一応、聞きにいってみるか。典型的なレガシーだし。」と。行ってみると面接担当者が、私は面接してもらいにいっているのに「俺、今こんなこと悩んでいるのだけれど、君ならどうやって実現させる?」と聞いてくるのです。
福本 今で言う「壁打ち」ですよね。
虻川 まさに(笑)。でもとても面白い会社だなと思いました。「自分だったらこうやりますね」と話すと、担当者は「キミ面白いね。ウチ来いよ」みたいな流れになり入社を決めました。その方とは、今も付き合いがあります。
福本 「壁打ち」は、システムのお悩みだったのですね。
虻川 はい。百貨店のシステム構築でのお悩みというお話でした。
福本 日本の鉄道会社は百貨店や不動産も手がけている企業が多いので、鉄道のことだけ考えているわけはないですからね。どうやって人がトータルで動いているかということ知りたがっているのですよね。
虻川 はい。グループ企業のシステムも担当していました。グループ企業はリソースに限りがある会社が多いので、グループの中核である鉄道が踏み込んで取り組むことがあります。それによってグループで全体最適が図れますし、データも繋げやすくなるので、良いことだと考えています。ただ、鉄道の人が百貨店の業務を十分に理解しているわけではないので、優先順位の設定などが難しいこともありますね。
――面接で、変えられる余地がいろいろあるのだと直感されたのですね。かなりチャレンジングであることが予想されたと思いますが。
虻川 話を聞いているうちに、同時にやることがいっぱいあるのは面白いなと思いました。面接の帰り道に、沿線にある関連会社のいくつかに足を運んでみましたが、課題があることはここでも感じられました。その時もやはり、やることがいっぱいあって楽しそうだと感じました。のびしろしかないと。
私はいつも、システムを武器にどのように変革をするか考えています。もとより、システムを作ることに興味があるというよりも、システムでどのように業務が変わるのか。そして、そのことがいかにお客様に価値を生み、従業員が活き活きと働き、その結果利益を生むという視点です。起業志望だったので視点がここなのです。一方で、会社のバックボーンの強さも同時に感じていました。これでさらに変革したら、ものすごく強い会社になるのではないかと思い描きましたね。
――まさに、今でいうDXにもつながる考え方ですね。
虻川 ただ当時はDXなんて言葉も当然ありませんでしたし、入社後に色々な衝撃は受けましたね。たとえば、誰も見ない帳票を延々と出し続けているとか。
福本 割と「あるある」ですね。
虻川 先輩からはこれを出すのが仕事と聞いていましたが、「これ何に使っているのですか」と他部署に帳票を届けながらで聞いたりしていました。届けた先では「よくわからない」とか「以前誰かがオーダーしたような。。。」とのこと。「いらなくないですか?」「いらない、かもね」みたいなやりとり(笑)。人、紙、時間、お金を無駄に使っているわけです。攻めていくためのリソースを確保するためには、無駄を排除していかなければなりませんよね。利益を上げるためにできることが、まだまだあるなと思いました。
「一度入力したものは、二度と入力させない」
福本 公共交通機関は、安全な運行が至上命令ですよね。その点はいかがですか。
虻川 安心安全がすべての正義です。人命にかかわる部分が多いので、特に交通系は安心安全が第一であり、そこに対してはお金をかけてでも守らなければならない。当然ですが改めて学んだ部分です。ただ、誰も否定しようのない安全安心を若いころからずっと叩き込まれてきた人たちが、たとえば運行以外のシステムを作るにあたっても「安心安全」や「安定化」を意識し過ぎてしまい、過剰なスペックにしがちな部分はあったかと思います。
系列のバス会社にも6年間勤務しました。バスにも多くのシステムがありましたが、本当に少ない人数でたくさんの事に取組んでいたので、システム部門は疲弊していました。情シスはシステムが止まれば怒られますが、安定稼働していても褒められないというのが定番。しかも、現場では「パソコン屋」程度の扱いでした。
福本 バス会社での改革の本丸は、何だったのですか。
虻川 攻めでは利益の拡大、守りではシステム最適化による徹底的な業務の効率化です。システム部門はコストセンターという位置づけでしたので、業務改善に取組むための人も予算もありませんでした。まず改革予算を確保しなければと考え、通信事業会社に路線バスへのWiFi設置を提案して実現し利益を生み始めました。たしか路線バス全車両に設置されたのは国内初だったと思います。コストセンターからベネフィットセンターへの変革を始めました。その他自社で使っていた高速バス予約システムを多くの同業他社にも使っていただけるようにリニュアルをかけていくとこも手掛けさせていただきました。
守りの部分での効率化の一例をあげると、当初営業所の現場で見受けられたオフコン*のシステムとエクセルの帳票にも同じ情報を入力しているような非効率な状況がありました。
* オフコン:オフィスコンピューターの略。総務や経理など事務処理に特化した小型コンピューターで、パソコンが普及する以前に使われていた。汎用機が大企業を中心に普及していたのに対し、オフコンは汎用機を導入するリソースのない中小企業を中心に広がった。
福本 二重入力の状態ですね。
虻川 ひどいものだと三重入力までありました。入力はほとんど若手が担当していましたが「なんで複数のシステムに同じ情報を入れているの?」と聞いても「先輩にこれを入れないと業務が回らないから必ず入れろと言われています。理由はよくわかりません。」という感じでした。根本的な改革が必要だと感じました。
多くの課題が散見されましたが、予算もない、人もいない中でどのように実現していくかを考えてた時に、目を付けたのがノーコードツールでした。システム部門でもプログラムをしっかりと書ける人は一部だったので、今後の運用を考えた時に私がいなくなってもきちんと価値を生み続けられる仕組み作りが絶対に必要と考え、専門知識がなくてもシステム開発ができ運用ができるkintone(ノーコードツール)の導入検討を始めました。この仕組みでしっかりとデータ設計をすれば「1度入力したものは2度と入力させない」を実現できると確信していました。
福本 手間と時間がかからないのは良いですよね。
虻川 安いとはいえもちろんコストがかかるので悩んでいた時にちょうど、警察から遺失物のリストをデータで収めてほしいと依頼があり予算がついていたので、その予算の1/3で実現するのでkintoneを導入させてほしいと経営会議に諮りました。遺失物は当時いたバス会社だけで年間4万件ありますが、それまでは紙と現物で管理していました。警察からの依頼は、遺失物をデータ化したいので手伝ってほしいとの内容で、結果としてモデルケースのような感じになりました。
福本 アジャイルだけで進めると、フロントはきちんと動いても、後で他のシステムと連携するようなときに大変になりますよね。
虻川 その通りです。ですから最初から全体のデータ設計にはこだわって取組んでいました。
新しいツール「絶対に使わないからな」と言っていた社員が豹変、その理由は……
福本 虻川さんは、コミュニティ作りにも積極的に参画されてきましたよね。私が虻川さんと知り合ったのも、八子(知礼・INDUSTRIAL-X代表取締役)さんのクラウドの勉強でした。
【八子氏が登場する鼎談記事】
【CTO対談】製造業におけるDXの“その先”へ ~前篇:製造業のDXのいま
――コミュニティを始めた背景は?
虻川 入社して数年経ったころ何か大きく効率化できるものはないかと考えた時にネットワークに目を付けました。当時のネットワークはシステム毎に違うネットワークが構築されているものでした。それを統合するだけで大きくコスト削減ができると考えました。しかし社内にノウハウを持った人間がおらず、学ぶ場がなかったのです。外に目を向けるしかありませんでした。その時に外部でやっていた勉強会に個人的に参加したのが最初です。いまから思うとAWSを学ぶjawsのようなコミュニティでしたね。最終的には運営側の手伝いもするようになっていました。
社内ではまだ他にやりたいことが山ほどあるので、社内でもネットワークに詳しい人を増やそうと、外で学んだことを社内の勉強会で展開していき、社内コミュニティのようなものも始めていました。そのころから外部との交流の大切さを学んで今に至ります。
「失われた30年」から再び日本を元気にする場としての、ものづくり
福本 前職では子会社とはいえ一度トップを経験されて、カシオ計算機に入社してもう一度サラリーマンに戻ろうと思った理由は何なのでしょうか。
虻川 鉄道会社を「卒業」したら、会社を作る事も考えていましたが、日本の「失われた30年」をリカバーさせる責任みたいなものがあるのではないかとも感じていました。日本のエンタープライズのシステム部門にも大きな責任があったと考えています。
――「失われた30年」を引き起こしたとは具体的に、どういうことを指していますか。
虻川 多くのシステム部門では、システムの運用保守に多くのリソースをとられ、イノベーションを起こしていくこと、いやそれ以前に業務変革を牽引していくことすらあまりできていなかったと考えています。今から振り返るとあの時期にはここまでできたなーと思うことも多いですね。これはもう、本当におこがましい勝手な私の妄想みたいなものかもしれませんが、日本が再生するのに自分が役に立てる業界はどこなのだろうかと考えた時に、日本はやはりものづくりが素晴らしいと思いました。これからAIが様々なところで使われていく中でIoTデバイスでデータをとっていくのもモノの大事な役割になってくると思います。世界で闘えるブランドを持ちながら、本気で変革に挑戦していく会社のお役に立ちたいと考えました。
福本 一般企業とSIerのエンジニア人数比率は、欧米企業と日本企業を比較すると、圧倒的に日本は一般企業の比率が低い。日本企業のシステム部門は圧倒的に人数が少ないので今でもDX推進に苦労している会社が多いのですよね。
虻川 次に企業にジョインするとすれば、微力ながらもう一度日本を元気にするために少しでも役に立ちたいというイメージができあがった時に、たまたま声がかかったのがカシオでした。会社としても、デジタルをきちんと活用して変革をしていくと謳っていたので、私も覚悟を持って入社しました。
福本 最後に、これからやりたいことやテーマをお聞かせください。
虻川 当社のDX戦略はユーザー中心のバリューチェーンの構築です。しかしながら、まだまだ縦割りの部分が多く残っているので、デジタルの力を使ってシステム・データ・ヒトがフラットに繋がる環境への変革をしていきたいですね。変革をしていくにはやはり最後は人が重要ですので、今後はDXのキーパーソンを各部署に作っていき、皆が協力して取り組んでいきやすい環境を構築して、デジタルもアナログもあるものは何でも活用して企業価値を上げていくこと、いいものを作っていい体験を提供するということを回していきたいですね。
福本 日本の製造業はものづくり部門がとても強い半面、データガバナンスが整っていなかったり、データがサイロ化されている部分があったりするので、さまざまなデジタルテクノロジーを使っていくときに、デジタルツインがいっぱいあるような状態ができてしまいます。今後、データガバナンスにきちんと取り組むことは必須で、サイロ化を解消していくこともとても大事だと理解しました。
虻川 データ管理する組織をあらたに作ったのですが、全社的にデータをしっかりと管理し鮮度の高いデータを蓄積していくことはさらに重要になってきます。今後、AIをどんどん活用していくうえで、データは命だと思います。そして真に効率的な業務プロセスを作り、お客様に価値を提供していくところや創造的な業務に、人のリソースを当てていきたいですね。それを実現するために、データがありAIがあると考えています。
福本 貴重なお話をありがとうございました。
【関連リンク】
カシオ計算機株式会社 https://www.casio.co.jp/
合同会社アルファコンパス https://www.alphacompass.jp/
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